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東京高等裁判所 昭和33年(う)1597号 判決 1965年11月25日

被告人 劉春梅

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は東京高等検察庁検事子原一夫提出の控訴趣意書に記載されたとおりであるから、ここにこれを引用し、これに対し次のように判断する。

所論は、原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかである事実の誤認があると主張する。

よつて按ずるに原審において取り調べた証拠を総合すると、昭和三十年八月十七日夕刻から夜にかけて、東京都世田谷区玉川中町二丁目九十六番地中華青年会館(以下「会館」と略称する)第十斎第三号室において、同室居住の寮生黄遠鉅が何者かに鈍器を以て後頭部を強打され、且つ革バンド様の物を以て頸部を緊縛されて死亡したこと並びに同日午後十時三十分頃から同十二時前頃までの間において、同室北西部備附けのロツカー附近から何者かの放火行為が原因で出火し、因つて右ロツカー、その東隣りに接する同室洋服箪笥、同室天井板、同斎二階第六号室内の洋服箪笥等屋根裏に至る約十坪を焼燬したことが認められ、且つその際右黄遠鉅(以下「被害者」と称する)がなにがしかの所持金及び時計を奪取されたことも推認するに難くないことは、原判示のとおりである。

しかして、本件公訴事実によれば、被告人は当時金銭に窮していたため被害者を殺害して金品を強奪せんと決意し、本件強盗殺人を敢行し、その犯跡を隠蔽するために本件放火をなしたものであるというにあり、被告人は、司法警察員、検察官及び勾留裁判官に対して、自己が本件強盗殺人及び放火の犯人である旨を自白し、その自白の内容は概ね本件公訴事実に照応し、且つその自白は、一件記録を精査し、当審における事実取調の結果に徴すると、任意にされたものでない疑いがある自白であるとは到底認められず、証拠能力を欠くものではないと解せられる。尤も、当審第十回公判期日及び昭和三十九年六月三十日の尋問期日における証人進藤光次の供述中には、被告人の司法警察員に対する自白が強制又は拷問による不任意の自白であると疑わせる趣旨の供述が存するが、右供述は爾余の各関係証拠に照らし、にわかに措信し難い。

ところで、原判決が適切に指摘しているとおり、本件においては、一件記録及び証拠物を検討し、且つ当審における事実取調の結果に徴しても、被告人と前示強盗殺人及び放火の各犯罪事実とを直接に結び付け、以て被告人が本件強盗殺人及び放火の犯人であることを確認するに足るべき客観的証拠、例えば、被告人が本件強盗殺人及び放火を敢行するところを目撃したという者の供述、犯行現場又は兇器等の証拠物に被告人の指紋が印象されていること、被告人が賍物を所持すること等が何一つ存在しないのである。

そこで以下所論にかんがみ、被告人の前示自白の内容を取調に係る爾余の各関係証拠と対照して、その証明力の有無を検討することとする。

第一犯行の動機について

一件記録、特に所論援用の証拠によれば、被告人は、昭和二十五年暮頃から会館第四斎第四号室に居住し、法政大学経済学部に通学していた者であるが、同二十八年頃から飲酒に耽つて学業を怠り、会館の寮費及び同大学の授業料を滞納し、質屋通いまでする状態にあり、遂に同三十年三月三十一日附を以て授業料未納の廉により同大学から除籍され、本件の発生した同年八月当時においては、寮費滞納の廉により会館からも停食処分を受け、同月十七日夜郷里長崎市に帰省する際には所持金僅か百円程度に過ぎず、金銭に窮していた事実を認めることができるが、

一  一件記録を精査しても、被告人が足繁く酒店に通つて多量の酒を飲み、そのため酒代の支払に窮していたものとは認め難く(原審第七回公判調書中証人新井広吉の供述記載参照)、

二  同第四回公判調書中証人劉美錦及び同第七回公判調書中証人小林文子の各供述記載によれば、会館の寮生達のうちで質屋通いをしていたのは被告人ばかりでなく、その他多数の寮生達も質屋通いをしていたこと、昭和三十年八月十七日夜被告人が長崎市に帰省する当時被告人は右小林文子(ひさごや質店)方に背広上衣、オーバー、セーター等を質物に置いて金九百円を借り受けていたのであるが、同質店においては、平素顔見知りの右寮生達に対しては、流質期間の三箇月が経過しても直ちに所定の流質手続をとることなく、その後約三箇月は流質を猶予していたこと及び右質物は被告人の依頼によりその友人鄭銘宗若しくは鄭銘俊が同月二十三日これを請け出しているが、その資金は被告人の帰省と行き違いに長崎市新地町九番地に居住する父劉盛瑞から被告人の帰省旅費として送金されて来た金二千円の中から支弁されていること、従つて、被告人は、右八月十七日夜長崎市に帰省するに際し、差し当つて質受金を捻出しなければならない事情があつたものとはいえないことがそれぞれ認められ、

三  同第八回公判調書中証人大沢らく、同第九回公判調書中証人林寿源及び同張順利、同第十一回公判調書中証人蕭龍光の各供述記載を総合すると、会館においては、寮費を滞納した寮生に対しては停食処分を執ることになつてはいたが、納期後五日間は停食処分を猶予する慣例であり、またその猶予期間を経過しても仲々規定どおりには停食を実施することなく、余つた食事を秘かに支給することもあり、しかも寮費を滞納している寮生は何時も十人内外はおり、会館側においても左程厳しく納入を督促せず、従つて、被告人一人だけが寮費滞納の廉により停食処分を受けていることを、ことさら苦慮すべき特別の事由があつたものとは認められず、

四  まして、同第四回公判調書中証人劉美錦、同第五回公判調書中証人鄭銘宗及び同第六回公判調書中証人陳瑞昌の各供述記載を総合すると、被告人の友人鄭銘宗は、同年七月末ないし八月初頃被告人と同郷の劉美錦から「被告人の父劉盛瑞に頼まれ被告人を長崎へ連れて帰る積りでいたが、被告人が帰ろうとしないから、これで切符を買つて被告人を長崎へ帰してくれ」と言われ、同人が被告人の父から預かつて来た現金千五百円を託されたため、その金員中から東京駅より長崎駅までの鉄道乗車券を同年八月十一日頃購入し、右乗車券の通用期間内に長崎へ帰省するよう被告人に勧告して右乗車券を被告人に手交したところ、被告人はこれを承諾し、同月十七日午後九時三十分東京駅発列車により寮生仲間の神戸市生田区山本通り四丁目二十四番地陳瑞昌と共に長崎市の父劉盛瑞方へ帰省することになつていたこと、従つて、被告人は当分の間在京中の生活費及び小遣銭を心配する必要がなかつたのは勿論ひこと、帰省の旅費にも事欠かなかつたこと、尤も東京部から長崎市へ列車により帰省するに際し、先きに記述したごとく所持金僅か百円程度では途中の小遣銭として不足ではあるが、若者の身分でわずか一夜を車中で過す程度の旅行であり、途中神戸市までは同行の寮生陳瑞昌がおり、行先は他ならぬ父母の許であつてみれば、格別多額の金員を携帯すべき必要もなかつたこと、なお被告人は右八月十七日午前中会館の被告人居室附近において前記鄭銘宗から「若し金がないなら立て替えてやる」旨告げられ、万一差し当つて金員の入用があれば同人から融通を受けることもできたことがそれぞれ認められ、

五  その他、一件記録を精査検討しても、本件当時被告人が人を殺害してまで金品を入手しなければならない程に切迫した境遇に追い詰められていたものとは到底認められない。

さすれば、原判決が、被告人には本件のような強盗殺人という重大且つ異常な犯行を敢えてしなければならない程の切迫した事情の存したことは窺えないとして、犯行の動機の存在を否定したことは洵に相当であるというべく、右認定に誤りがあると主張する論旨(第二)は理由がない。

第二殴打の事実について

本件公訴事実並びに原審第一回公判期日における検察官の冒頭陳述及び同第三回公判期日における検察官の釈明によれば、検察官の主張は、被告人は、昭和三十年八月十七日午後七時頃会館第十斎第三号室なる被害者の居室に入つてベツトに腰を掛け、向い合つて椅子に腰を掛けていた被害者と雑談をしているうち、被害者が横に振り向いた隙に所携の長さ約一尺四寸の樫の角棒(司法警察員籾山広元作成の同年八月十八日附捜索差押調書添附の押収品目録記載の番号二五、原庁昭和三一年証第一〇七二号の五号、当庁昭和三三年押第五八七号の五号)を以て同人の後頭部を数回強打し、そのためぐつたりとして椅子にもたれかかつた同人のズボンから革製バンドを引き抜き、これをその首に巻き付けて緊縛し、因つて同人を頸部圧迫による窒息並びに蜘網膜下腔出血による脳圧迫及び脳挫傷により惹起された脳機能障碍のため死亡するに至らせ、次いで同室内を物色し、机の抽斗内から同人所有の現金三百数十円及び同人の左手首から男物腕時計一個を抜き取つて強取し、一旦同室を出て東京駅へ向つたのであるが、その途中右強盗殺人の犯跡を隠蔽するため、被害者の居室を焼燬してしまおうと決意し、同日午後八時頃東京急行電鉄等々力駅から会館第十斎第三号室へ引き返し、公訴事実摘示の方法によつて放火したうえ逃走し、因つて同日午後十一時五十分頃同室内の洋服箪笥、ロツカー及び天井板並びにその二階第六号室の洋服箪笥等屋根裏に至る約十坪を燃焼させ、以て現に寮生楊集龍らの住居に使用する会館第十斎の建物を焼燬したものであるというにあり、前掲樫の角棒(以下「本件角棒」と称する)による後頭部殴打の事実は、本件強盗殺人及び放火の一連の犯罪行為の中核を成すものである。

ところで、右殴打の事実に関し、被告人は、検察官長山頼正に対する昭和三十年十月二十二日附供述調書、司法警察員沼本政一に対する同月二十七日附供述調書及び同籾山広元に対する同月二十八日附供述調書中においては、概ね右検察官の主張に照応する旨の供述をしているが、同沼本政一に対する同月二十日附供述調書中においては、右と異なり、被害者の居室の入口のドアを叩くと、室内から被害者がドアを開いて入口に出て来たので、同人が入口に頭を出したところをいきなり殴打した旨供述し、殴打の場所についての供述が、右十月二十二日以後とその前とでは著しく相違していることはまさに原判決に指摘するとおりであり、しかも原審第十二回公判調書中証人進藤光次の供述記載によれば、被告人は、同年十月二十三日司法警察員進藤光次外二名によつて玉川警察署から東京地方裁判所へ勾留質問のため押送される自動車内において、右進藤警察員に対し「貴方には、ドアの所で被害者を叩いたと言つたけれども、それは間違いで、昨日(十月二十二日)長山検事には、違う別の所で殴つたと述べた、検事さんに話したのが本当である」旨告げたに止まり、何故に検察官に対し、先きに司法警察員に対し供述したことと相違する供述をしたのかにつき何らの説明をもせず、本件の担当捜査員である進藤警察員も別段その点の説明を求めなかつたことが認められ、また一件記録を調べてみても、被告人が右のごとく殴打の場所についての供述を変更するに至つた事由が明らかでなく、原審鑑定人宮城音弥作成の鑑定書及び原審第二十一回公判調書中右鑑定人の供述記載並びに同第四回公判調書中証人劉美錦の供述記載は、未だ以て右供述の変化が被告人の単なる記憶違い、思い違いに過ぎないものと断定すべき資料とはなり得ないと認められる。

本件の如き殺人事件においては、犯人が、被害者においてその居室の入口に頭を出したところをいきなり殴打したのか、或は被害者の室内に入つて同人と話をしてから、相手が椅子に腰を掛けているところを殴打したのかは、殺人の実行行為の核心に触れる極めて重要な事項に属し、所論のように、犯行の細部に亘る些末な事項に過ぎないものとはいえないから、原判決が、被害者を殴打した場所についての被告人の供述に、単なる記憶違い、思い違いとは認められず、その事由が明らかでない、著しい変化のあることを捉えて、以て被告人の司法警察員及び検察官に対する自白の真実性に疑いがあると判断したことは強ち失当であるとはいえない。

次に、一般に殺人事件において、犯人が被害者を殴打して死に致したという場合には、その使用した兇器の種類、形状、殴打の回数並びに兇器使用後の処置は、殺人の実行行為を確定するため明確にしなければならない極めて重要な事項に属するものというべきところ、

一  被告人は、前掲沼本警察員に対する十月二十日附、長山検察官に対する同月二十二日附及び籾山警察員に対する同月二十八日附各供述調書中において、長さ一尺五寸前後の堅い四角の棒を以て被害者の右後頭部附近を数回殴打した後その棒を、はつきりした記憶はないが、被害者の居室(第十斎第三号室)内に放置したように思う旨供述し、

二  司法警察員籾山広元外一名作成の昭和三十年八月十八日附検証調書(以下「籾山検証調書」と称する)及び前掲捜索差押調書(添附の押収品目録を含む)並びに原審第三回、第十四回各公判調書中証人籾山広元の供述記載及び当審第十五回公判期日における右証人の供述によれば、籾山警察員らは本件の発生後間もない右八月十八日午前七時三十分以降同日午前十一時三十分まで本件犯行の現場と認められる会館第十斎第三号室及びその附近一帯の検証を実施した際に、右第三号室の入口を入つて直ぐ右側、即ち同室南西部にある間口三尺、奥行二尺、扉のない、上、下二段に区劃された物品棚の下段に置いてあつた石油焜炉及びその奥のボール箱の右後方に稍々斜めに無造作に放り込んだように入つていた本件角棒を発見し、証拠物件としてその場で押収し、爾来玉川警察署内の本件強盗殺人、放火事件の捜査本部に置いていたことが認められ、

三  被害者の死因及び死後の経過時間、創傷の部位、程度、兇器の種類等については、同年九月十日附を以て鑑定人船尾忠孝外一名作成の鑑定書(以下「船尾鑑定書」と称する)が作成され、右鑑定書によれば、被害者の後頭部右側に小挫創三個を伴う、重傷と認められる大打撲傷一個が存在し、右創傷は被害者の生存中に、攻撃面が比較的平滑にして、且つ重量の大きい鈍器により強打されることに因り生ぜしめられたものではなかろうかと推定される旨の鑑定所見が示されており、

四  本件角棒は、椅子の脚のような堅い四角の棒で、全長約四二・七糎、長軸に副う側面の幅は広い所で約三・八糎、狭い所で約一・八糎あり、その側面は比較的平滑な面を成す鈍器であり、重量の点は兎も角として、その種類、性状及び発見状況が、使用兇器の種類性状及び使用後の処置についての被告人の前掲自白と概ね一致し、叙上鑑定所見は右の一致性を必ずしも妨げるものではなく、しかもその現品は既に事件直後の八月十八日現場において司法警察員により押収され、爾来本件の捜査本部に置かれ、被告人の取調に当る司法警察員及び検察官がこれを被告人に示して供述を求めようと思えば何時でも自由に引用することができる状態にあつたのであるから、前掲自白を聴き取つた司法警察員及び検察官としては、本件角棒が被告人の自白する使用兇器ではあるまいかとの疑いを以てこれを被告人に示し、否やの供述を求める措置に出ることが犯罪捜査の常道と思料されるに拘らず、一件記録を精査し、且つ当審における事実取調の結果に徴しても、同年十月三十日籾山警察員による取調以前においては、司法警察員も検察官も本件角棒を被告人に示して、その自白に係る使用兇器との一致性の有無を確かめる措置に出たことを認めるに足りる証跡がないのである。

しかして、被告人の司法警察員籾山広元に対する同年十月三十日附供述調書(被告人の署名はあるが押印のないもの、記録第六冊二四二六丁以下)並びに原審第十四回公判調書中証人籾山広元の供述記載及び当審第十五回公判期日における右証人の供述によれば、本件の捜査本部は、右十月三十日籾山警察員による取調の際に初めて本件角棒を被告人に示し、「この棒に見覚えがあるか」と質問したところ、被告人は「この棒に僕の指紋があつたでしよう、これらしいですが何処に有りましたか、これを持つて行く時その附近に同じような角棒が沢山ありましたから、はつきり判りませんが見覚えがあるようです」と供述し、その棒を右手で右脇下に抱え込むようにして長さを計り、「これですね、間違いないでしよう」と供述し、前掲沼本及び籾山各警察員並びに長山検察官に対する各自白と相俟ち、本件角棒を以て被害者の右後頭部附近を数回殴打した事実を自供したものと認められるが、右籾山証人の原審及び当審における供述によると、被告人は、同月三十一日叙上供述を録取した同月三十日附供述調書に署名及び押印を求められるに及び、「それに録取されてある自分の供述は、昨日自分が供述したところと相違しないが、内容が真実とは相違するから、自分は認めない」旨申し立てて署名のみをし、指印することを拒絶した事実が認められる。

以上の捜査経過にかんがみると、被告人が長さ一尺五寸前後の堅い四角の棒を以て被害者の右後頭部附近を数回殴打した旨の前掲沼本警察員に対する十月二十日附、長山検察官に対する同月二十二日附及び籾山警察員に対する同月二十八日附各供述調書中の被告人の自白は、その信憑力において脆弱なものがあるとの疑いを払拭し難く、また本件角棒が右の使用兇器であることを認めた叙上籾山警察員に対する同月三十日附供述調書中の被告人の自白は、原判決が適切に指摘しているとおり、不自然であり、且つ真摯性を欠くものとの感を禁ずることを得ない。

(なお、以上の各自白調書によれば、被告人は、本件角棒を以て被害者を殴打する際に、手袋等を使用してこれに指紋が附着することを防止したとか、或は兇行後においてこれを拭う等して附着した指紋を消去する方法を講じたというような供述をしている跡が見られないから、若しそうだとすれば、籾山検証調書に明らかなとおり、本件角棒が本件火災及びその後の消火活動により殆んど影響を受けていないと認められる場所にあつたことにかんがみ、或はこれに被告人の指紋が附着しているやも知れないと思料されるところ、一件記録を精査し、且つ当審における事実取調の結果に徴しても、これに被告人の指紋が附着していた事実を認めることができないのは勿論のこと、捜査の過程において被告人の指紋を検出する努力が払われた形跡も窺われないのである。)

更に観点を変え、被害者の死体の頭部に存する創傷(絞痕を除く)の状況から、本件角棒による被害者の後頭部殴打の事実を認めた被告人の叙上自白の真実性の有無を考究してみるに、船尾鑑定書によれば、鑑定人船尾忠孝外一名は、昭和三十年八月十八日午前十一時三十分から同日午後一時四十分までの間に被害者の死体を解剖し、

その結果

一  創傷の部位、程度につき、

頭部外景に存する創傷として、後頭部右側、外後頭結節の右上方約六・五糎の処(右耳翼頂部の左後稍々上方約一〇糎の処)を中心として、左右経約八(上端部)――一四(中央部)――三(下端部)糎、上下径約七(右端部)――一〇(中央部)――一〇(左端部)糎大の皮膚変色及び皮膚扁平化並びに略々同大、極めて厚層の皮下組織間出血及び大打撲傷一個あり、この打撲傷は、創口の上下径約〇・三――〇・四糎、創底は皮下組織間に留まる小挫創三個を伴い(以上をすべて創傷(1) と称する)、

頭部内景に存する創傷として、

後頭骨略々中央から右側頭骨に亘る約手掌面大の骨扁平化一個(創傷(3) )

後頭骨三角縫合左側縁から右後頭蓋窩に達する長さ約一五・五糎の線状破裂骨折一条(創傷(4) )

右後頭葉上面略々中央に約二倍鶏卵大、厚層の蜘網膜下腔出血一個(創傷(5) )

右後頭葉下面に位する脳実質に約鶏卵大、浅在性の脳挫傷一個(創傷(6) )

小脳右側前面に約二倍拇指頭面大、稍々厚層の蜘網膜下腔出血一個(創傷(7) )

あり、

これらの創傷はいずれも生存中に生じたもので、そのうち内景に存する蜘網膜下腔出血二個及び脳挫傷(創傷(5) 、(6) 、(7) )は致命傷であり、頭蓋骨々折(創傷(4) の線状破裂骨折一条)及び外景に存する打撲傷(創傷(1) のうち)は共に重傷であり、その他は軽傷である、

二  兇器の種類及び用法につき、外景に存する打撲傷(創傷(1) のうち)は、その性状から判断すると、攻撃面が比較的平滑にして、且つ重量の大きい鈍器により強打されることに因り生ぜしめられたものではなかろうかと推定されるが、本創傷は鈍器の形態を印象していないので、鈍器の種類は明言し難い、

旨の所見が示されており、原審第十一回及び第十九回各公判調書中証人船尾忠孝の供述記載並びに昭和三十六年六月六日の当審尋問期日における右証人の供述記載(以下順次「船尾原審第一回供述」、「船尾原審第二回供述」、「船尾当審供述」と称する)によれば、頭部内景に存する前掲約手掌面大の骨扁平化(創傷(3) )は、被害者が外部からの打撃、即ち殴打を受けたことに因つて生じたものであり、斯る骨扁平化を生ぜしめ得べき兇器は、その幅が少なくとも約手掌面大、即ち八ないし九糎あるものでなければならず、且つ被害者に加えられた打撃は一回限りであつた公算が極めて大きいというにあり、この供述に従つて考究する限り、本件角棒は本件犯行に使用された物とは別個の物であると断ずるのほかなく、また被害者を殴打した回数についての被告人の自白は真実に符合していないとの疑いを挾まざるを得ないのである。

しかし乍ら、(一) 船尾原審第一、二回及び当審各供述自体によつても窺われるとおり、そのいわゆる骨扁平化部と非扁平化部との境界は、頭蓋骨が彎曲している頂部においては明確にこれを実視することができないため、扁平化部の大いさを具体的数値を以て計測することが困難であり、現に船尾鑑定書においては右骨扁平化部の大いさを漠然と約手掌面大と表現するに止まり、その大いさは具体的には必ずしも明らかでないのみならず、(二) 原審鑑定人岡島道夫、当審鑑定人古畑種基、同黒岩武次各作成の鑑定書(以下順次「岡島鑑定書」、「古畑鑑定書」、「黒岩鑑定書」と称する)並びに原審第十八回公判調書中鑑定人岡島道夫の供述記載、当審第五回公判調書中証人古畑種基の供述記載、昭和三十六年三月四日の当審尋問期日における右証人の供述記載及び同年一月十三日の当審尋問期日における証人黒岩武次の供述記載(以下順次「岡島供述」、「古畑第一回供述」、「古畑第二回供述」、「黒岩供述」と称する)にかんがみると、そもそも船尾鑑定書及び船尾原審、当審各供述にいわゆる骨扁平化とは、頭蓋骨が如何様に変化した現象を指称するのであるかが概念的に必ずしも明らかでなく、仮りに右船尾鑑定書等にいわゆる骨扁平化という一種の現象が認められるとしても、それは生来的のものであるか将た又後天的のものであるか、後天的のものであるとしても、例えば、後頭部を継続的に堅い枕に当てて横臥した等の事由に因る正常のものであるか将た又外部からの打撃に因る外傷性のものであるか、外傷性のものであるとした場合に、扁平化部自体に亀裂、陥凹、陥没、穿孔等の骨損傷を惹起しないことが有り得るか等の諸点は未だ十分に解明されているものとはいい難く、まして、兇器の作用面の広さを判断するについて、骨に印象されている痕跡から判断することが最も正確であるとも一概には言い切れないから、

以下船尾鑑定書等にいわゆる骨扁平化を除外して検討を試みるに、岡島、古畑及び黒岩各鑑定書並びに岡島、古畑及び黒岩各供述のいずれに従つても、被害者の死体の頭部に存する創傷(但し、絞痕及び骨扁平化を除く)、即ち船尾鑑定書記載の創傷(1) 、(4) ないし(7) はすべて、同一の機会に、同一の鈍器が被害者の右後頭部に対し、真後ないしこれより稍々右に偏つた方向から相当に強い力、棒状体であれば常人が力一杯入れて殴打した程度を以て作用したことに因り生じたものであり、その作用面は比較的平坦なものと推定されるが、場合によつてはそれが作用した頭部外表に創傷(1) のうちの小挫創のごとき極めて浅い挫創を生ずる程度の多少の凹凸が存在しているかも知れず、具体的には、棍棒、角材の如き棒状体又は壁、石若しくはコンクリートの床の如き平面体を推測することができ、一件記録を精査し、且つ当審における事実取調の結果にかんがみても、右の推定を覆すに足るべき資料は存しない。

問題の一 兇器の作用面の広さについて

(一)  船尾原審第二回供述、岡島供述及び古畑第二回供述を総合すると、船尾鑑定書記載の創傷(1) のうちの皮膚変色は、その下部の皮下組織間出血(以下「皮下出血」と称する)に基づくものであつて、右皮下出血部の大いさは数値的には右皮膚変色部の大いさに略々一致し、可成り広汎なものであつたと認められ、

(二)  岡島鑑定書及び岡島供述によれば、兇器の作用面の広さは明らかではないが、(1) 一般的にみて、皮下出血部と略々同大の場合もあるが、皮下組織間に出血した血液が周囲の組織内に浸潤している場合には皮下出血部より狭い場合がある、その浸潤の度合は破れた血管の太さ、その部位の組織の密度等により様々である、(2) 頭部が球状を成していることを考慮に容れると、鈍器の平坦な面が如何に大きくても、一回の打撃によつて頭部がこれに接触し得る面積は一定の大いさに限られてくる、その面積は頭部の部位や形態の個人的差異によつて異なつてくるが、おおよその見当では、本件死体の前記皮下出血の範囲程度のものになるのではないかと思われる、従つて、本件頭部に作用した鈍器が後頭部に直接作用した面或は皮下出血部の面積よりも広い平坦な面を有している場合、例えば、コンクリートの広い床の一部に後頭部をぶつけた場合、幅の広い角材の一部が作用した場合があり得るというのであるところ、自ら本件死体を観察して解剖した鑑定人船尾忠孝の原審第二回供述及び当審供述によれば、本件死体においては、皮下組織間に出血した血液はそれ程ひどくは周囲の組織内に滲透している状況ではなかつたというにあり、またそのいわゆる骨扁平化を度外視し、皮膚に印象されている傷痕、即ち皮下出血に基づく皮膚変色の広さ及び形状から推定すると、兇器は、その幅が少なくとも皮膚変色部大で、攻撃面が平滑な鈍体、例えば、家の柱のごとき太さと重量のあるものであると推定されるというのであるから、結局岡島鑑定書及び岡島供述にいう、兇器の作用面の広さが皮下出血部と略々同大である場合に該当する可能性が強いと認むべく、

(三)  また黒岩鑑定書及び黒岩供述によれば、本件死体の頭部内景には線状破裂骨折一条(船尾鑑定書記載の創傷(4) )が存するが、線状破裂骨折は、通常、相当幅の広い又は面積の広い兇器によつてできるものであつて、本件角棒の如く長軸に副う側面の幅が広い所で約三・八糎、狭い所で約一・八糎という作用面の狭い棒状体を以て頭部を殴打した場合には、例外もあるが、原則として、作用部位の頭皮に物体の辺縁に相当する個所に挫創又は裂創を生じ、打撃面に相当した表皮の剥脱又は皮内出血にて略々兇器の形状を示すのが普通であり、且つ恐らく頭蓋骨に陥没骨折を生ぜしめるであろうが、本件死体には斯る創傷は認められないから、被害者の死体の頭部に存する創傷(但し、絞痕及び骨扁平化を除く)、特に右線状破裂骨折は本件角棒の打撃に因つて生じたものとは認め難く、恐らく更に幅の広い平面的鈍体の打撃に因るものであろう、骨扁平化を除外して考えた場合、頭蓋骨々折(右の線状破裂骨折一条を指す)の割合に挫創が小さいことから推して、兇器は本件角棒よりもう少し幅が広いものではないかと思われ、二回又はそれ以上の打撃に因るとしても挫創が小さ過ぎるように思われるというのであるところ、自ら本件死体を観察して解剖した鑑定人船尾忠孝の鑑定書並びに原審及び当審供述によれば、被害者の頭部外景に存する三個の挫創(船尾鑑定書記載の創傷(1) のうち)はいずれも、創口の上下径が約〇・四糎以下、暢は最も広い部において約〇・二糎、深さは非常に浅く、創底が皮下組織間に留まる極めて小さいもので、その他には頭皮に表皮剥脱及び組織断裂のごとき変化は認められず、頭蓋骨の変化としては、いわゆる骨扁平化(船尾鑑定書記載の創傷(3) )を別としては、後頭部右側の皮下出血部(同創傷(1) のうち)に相当してその後下端部に線状破裂骨折一条(同創傷(4) )を存するに止まり、作用部位に陥凹、陥没、穿孔、撓曲等の骨損傷の存在を証すべき所見を認めることができないというのであるから、結局黒岩鑑定書及び黒岩供述にいう、作用面が相当広い鈍器が作用した場合に該当する可能性が強いと認むべく、

以上を総合して考察すると、被害者の後頭部に作用した鈍器は、コンクリートの床、板又は幅の広い角材の如く、作用面が特に広い物体であり、若し角材等の棒状体であるとすれば、その長軸に副う側面の幅は前掲皮下出血部の大いさと略々同大若しくはそれに近く、少なくとも約手掌面大、即ち約八糎ないし九糎幅のものであり、従つて長軸に副う側面の幅が広い所で約三・八糎に過ぎない本件角棒は右の鈍器には該当しないと認めるのが相当である。

尤も古畑鑑定書及び古畑第一、二回供述によれば、いわゆる平たい物を以て頭部を殴打すれば、頭蓋骨は線状に折損しないで陥凹すべき筈であるのに、本件死体に見られる如く線状骨折を呈している場合においては、比較的細長い鈍器を以て殴打したということが先ず想像され、その鈍器の作用面の幅は四糎程度であれば十分であると思料されるから、本件角棒の打撃に因つて被害者の死体の頭部に存する創傷(絞痕及び骨扁平化を除く)、特に船尾鑑定書記載の創傷(4) 線状破裂骨折一条を生ぜしめることが可能であるというのであるが、右古畑第一、二回供述によつて理解される如く、頭蓋骨々折には、外力の直接的作用による直接骨折とその間接的作用による間接骨折(いわゆる破裂骨折)とあり、若し直接骨折であれば外力が作用した部位に皮下出血を生ぜしめるに止まらず、更に重篤な皮膚損傷のほか同部位の骨に亀裂、陥凹、陥没等の変化を惹起すべきも、間接骨折であれば外力が作用した部位には精々皮下出血を生ぜしめるに止まり、他に著明な皮膚及び骨の損傷を惹起せず、同部位より離れた別個の個所に、外力の作用方向に一致して線状骨折を生ぜしめるものであるところ、該供述によれば、そもそも本件の線状破裂骨折は、鈍器が右骨折線の存在する部位に直接的に作用したことによつて生じたものであるか将た又皮下出血の存在する部位に作用した結果間接的に生じたものであるかが明確でないというに帰するから、右古畑鑑定人の鑑定結果は必ずしも叙上認定と相容れないものではないと解される。

問題の二 兇器の作用回数について

(一)  岡島鑑定書及び岡島供述によれば、兇器の作用回数については、一回及び二回以上の両者が考えられるが、船尾鑑定書記載の死体所見のみによつては作用回数を判然推定することは困難であるというに帰するから、右作用回数は、自ら本件死体を観察して解剖した船尾鑑定人の所見に基づいてこれを推定するのが相当であると思料されるところ、船尾鑑定書並びに船尾原審第一、二回及び当審各供述を総合するに、若し数回の打撃が加えられたとすると、骨扁平化は別として、本件死体の頭部に存する皮膚扁平化(船尾鑑定書記載の創傷(1) のうち)の如く段階、くいちがいのない平面という解剖所見は普通得られないものであるし、その他にも二回以上打撃が加えられたと思われる如き創傷が認められないから、打撃は一回であると判示するのが最も常識的であるというのであり、

(二)  また黒岩鑑定書及び黒岩供述によれば、若し兇器の作用回数が二回以上であるとすれば、頭蓋骨々折は一条の線状破裂骨折に止まらず更に著しくなるものと思われるところ、本件死体の頭部においては、線状破裂骨折一条を存するに止まり、他に骨損傷の存在を証すべき所見が認められず、また頭部外景に存する挫創(船尾鑑定書記載の創傷(1) のうち)も前述の程度のもので、作用回数が二回以上にしては小さ過ぎるというのであるから、

被害者の後頭部に鈍器が作用した回数は、一回であつた公算が極めて大であると認めるのが相当である。

なお古畑鑑定書及び古畑第一、二回供述も、兇器の作用回数が一回であることの可能性を絶対的に否定しているわけではなく、一回でも数回でも、どちらでもよいが、ただ本件角棒の如く手に持つて自由に振り廻すことができる程度の形状、重量の物体を以て殴打する場合においては、その手頃さ加減から考えて、一回に止まらず二回、三回と続けて打撃を加えることが経験上多いと思われるから、本件角棒が兇器であつたとすれば、作用回数に止まらず数回ではなかつたろうかと推定するというに過ぎないから、右古畑鑑定人の鑑定結果は必ずしも叙上認定と相容れないものではないと解すべきである。

してみれば、犯人が被害者の後頭部を殴打するにつき使用した兇器の作用面の広さ(その兇器が棒状体であるとすれば、その長軸に副う側面の幅)及び作用回数に関する原判決の認定は結局相当であることに帰し、被告人の前掲司法警察員及び検察官に対する自白中被害者の後頭部を殴打するにつき使用した兇器の形状及び殴打した回数に関する供述が真実に符合しないとの重大な疑いがあるとした原判決の判断は決して不合理且つ失当なものであるとはいえない。

論旨(第三及び第四)は理由がない。

第三財布の処置について

本件公訴事実及び原審第一回公判期日における検察官の冒頭陳述によれば、検察官の主張は、被告人は、昭和三十年八月十七日午後七時頃会館第十斎第三号室なる被害者の居室内において被害者を殺害したうえ、同室内を物色し、同人所有の現金及び腕時計を強取したものであるというにあるところ、はじめに記述したとおり、一件記録を精査し、且つ当審における事実取調の結果に徴しても、被告人が右賍物を所持する事実を認めるに足りる証拠はないのであるが、他方被告人は、前掲沼本警察員に対する同年十月二十日附、長山検察官に対する同月二十二日附、籾山警察員に対する同月二十八日附及び同月三十日附(被告人の署名はあるが押印のないもの、記録第六冊二四二六丁以下)各供述調書中において、被害者を殺害してから右居室内の机の上か机の抽斗の中を物色したところ財布があつたので開けてみたが金が入つていなかつたので、その時か又は放火のため再び右居室内へ入つた時に、これを同室北西部備附けのロツカーの東隣りに接する同室に造り附けの洋服箪笥の中に入れた旨供述し、原審第三回公判調書中証人大根竹次郎及び当審第十四回公判期日における右証人の供述並びに司法巡査大根竹次郎が作成したと認められる見取図一葉及び財布の発見位置等を示す写真三葉(記録第一冊四〇四丁ないし四〇七丁)によれば、本件発生の翌々日である同年八月十九日午前十一時頃右の財布と認められるチヨコレート色革製二つ折財布(原庁昭和三一年証第一〇七二号の六号、当庁昭和三三年押第五八七号の六号、以下「本件財布」と称する)が右大根巡査によつて、右洋服箪笥の大体下辺りの地面上から発見されて存在していることが認められるので、本件財布の処置及びその発見経過に関する事項は、被告人の前掲司法警察員及び検察官に対する本件強盗殺人及び放火についての供述の信憑力の有無を判定するにつき極めて重要な契機を成すものといわなければならない。

一  右証人大根竹次郎の供述記載及び供述並びに見取図一葉及び写真三葉と籾山検証調書(添附の写真を含む)並びに原審第三回公判調書中証人籾山広元の供述記載及び当審第十五回公判期日における右証人の供述とを総合すると、

(1)  本件火災の発生にあたつては、右洋服箪笥内において相当長時間に亘る燻焼があつたものと認められるから、若し被告人が前掲自供の如く、本件財布を洋服箪笥の中に入れたというのであれば、それは焼失しないまでも相当程度に焼損している筈であるに拘らず、大根巡査がこれを発見した当時の状態によれば、濡れてはいたが焦げた痕跡が認められなかつたというのであつて、この事実は、本件財布の発見経過に関する後述の疑問点を別としても、それ自体既に不合理の感あるを禁じ得ず、

(2)  本件発生の翌日である八月十八日午前七時三十分頃籾山警察員らが本件犯行の現場と認められる会館第十斎第三号室及びその附近一帯の検証を開始した際には、右洋服箪笥の上方は悉く焼失し枠のみが炭化して一部残存するに過ぎなかつたが、その下部の底板及びその下方に接着した抽斗は燃え抜けず、そのままの状態で残存していた事実が認められるから、たとえその抽斗の下に当初から床板が張られていなかつたとしてもも、洋服箪笥の内部とその下方の地面とは右底板及び抽斗によつて遮断され、洋服箪笥内の物件がひとりでにその下方の地面に落下する可能性はなかつたものというべく、従つて、若し被告人が前掲自供の如く、本件財布を洋服箪笥の中に入れたというのであれば、右八月十八日籾山警察員らによる検証実施の当時において当然洋服箪笥の中に存在し、同警察員らが洋服箪笥の底板上に堆積していた布団、学生服、カーテン、風呂敷等、焼残りと覚しき諸物品を手前へかき落して廊下へ運び出した際に余程の不注意がない限りはその諸物品に混つて本件財布が発見されなければならない筈であるのに、その際同所においては発見されず、当時抽斗を開けてみたけれども中は空であつてその中にも発見されず、その翌十九日午前十一時頃になつてはじめて大根巡査により洋服箪笥の大体下辺りの地面から発見されたということは洵に不可解というの外なく、

(3)  或は、右八月十八日籾山警察員らが検証実施の当時、洋服箪笥の底板上に堆積していた諸物品を手前へかき落して廊下へ運び出した際に、その諸物品に混つているのを不注意により見落したということも考えられないではないが、籾山警察員らは、右検証終了に際し、一応洋服箪笥内部には焼残りと覚しき諸物品は残存しない状態になし、底板及び抽斗を撤去せずそのままにし、現場には警察官を配置して状況保存の策を講じたに拘らず、その翌十九日午前十一時頃大根巡査が本件財布を発見した時には、洋服箪笥の底板及び抽斗は既に撤去されて存在せず、残つている外枠から内部へ顔を突つ込めげ直かにその下方の地面まで覗くことができる状況となつていた事実が認められ、斯様に八月十八日午前十一時三十分頃籾山警察員らによる検証の終了時から翌十九日午前十一時頃大根巡査による本件財布の発見時に至る間に洋服箪笥の底部を中心とする現場の状況が何時、なんびとにより、どのようにして変更されたのであるか、また被告人の前掲自白によれば当初洋服箪笥の中にあつた筈の本件財布が、その後どういう経緯でその下方の地面上から発見されるに至つたのであるかは、一件記録を精査し、且つ当審における事実取調の結果に徴しても、遂にこれを解明するに由なく、

二  所論は、被告人の前掲自供に係る「洋服箪笥の中に入れた」旨の表現は、洋服箪笥底板下方に接着する抽斗を抜いてその下方の地面に向け投げ込んだことを意味するものと主張するのであるが、

(1)  一般に「洋服箪笥の中に入れた」と言えば、洋服箪笥固有の部分、即ちその底板より上方の部分に入れたことを意味するのが言葉の通常の用法に適い、所論の如き意味に解することは無理であり、被告人の前掲自供によるも、被告人は洋服箪笥の抽斗を開けたことはないとさえ供述しており(籾山警察員に対する前掲十月三十日附供述調書参照)

(2)  また前掲証人大根竹次郎の供述記載及び供述並びに見取図一葉及び写真三葉によれば、本件財布は、洋服箪笥の真下やその奥の方(北寄り)ではなく、寧ろ手前の方(南寄り)で、洋服箪笥の扉の取付位置の概ね垂直下方向の地面上から発見されたことが認められ、この発見位置から推しても、所論の如く抽斗を抜いてその下方の地面に向け無造作に投げ込んだという状況を認め難く、

三  斯様に、本件財布の処置に関する被告人の前掲自供と該財布の発見経過との間には到底解明するに由なき幾多の重大なくい違いがあるに拘らず、一件記録を精査し、且つ当審における事実取調の結果に徴しても、そのくい違いを当然気付くべき本件捜査担当の司法警察員及び検察官において、被告人に対し右のくい違いを聞き糺して疑問を解明する措置に出たことを認めるに足りる証跡がなく、僅かに籾山警察員が前掲十月三十日附供述調書中において、被告人の「本件財布は、被害者の物で、自分が盗つて多分洋服箪笥の中に放り込んだように記憶しますが、燃えていないですね、何処から出たんですか、兎に角覚えています」旨の供述を録取するに止まり、その供述内容については、被告人は記憶が判然しないのか位に解釈してこれを聞き流し、抽斗を抜いて床下へ投げ込んだのではなかろうかとの質問さえしなかつたということ(当審第十五回公判期日における証人籾山広元の供述参照)は、被告人が被害者を殺害したうえ、室内を物色し、本件財布を強取し、これを洋服箪笥の中に入れた旨の前掲沼本警察員に対する十月二十日附、長山検察官に対する同月二十二日附、籾山警察員に対する同月二十八日附及び同月三十日附各供述調書中の被告人の自白は、その信憑力において脆弱なものがあることを物語る有力な証左となるべく、右と同旨に出た原判決の判断は洵に相当である。

論旨(第六)は理由がない。

第四結び

被告人の司法警察員及び検察官に対する本件強盗殺人及び放火についての自白は、原判決が指摘するとおり、被告人が玉川警察暑においてはじめて自白した際の情況、自白後における被告人の態度及び言動に徴し、また本件が発生した当夜長崎市に帰省すべく、寮生鄭銘宗及び同陳瑞昌と共に会館を出て東京駅へ赴く途中東京急行電鉄等々力駅まで行きながら、にわかに同駅から会館へ単身引き返した事実及び本件当日右鄭銘宗から電気スタンドを借り受けたその使途が必ずしも明瞭でない事実にかんがみると、全く架空虚偽の供述ばかりであるともいい難く、部分的にはまさに真実を供述したのではあるまいかと思料される節々も存することを認めざるを得ず、この限りにおいては論旨(第七)も強ち理由がないではない。

しかし、叙上第一ないし第三において考究したとおり、本件公訴事実中強盗殺人の事実について、犯行の動機として首肯するに足るものを認め難く、殺人の実行行為の中核を成すものと認められる殴打の場所についての自白相互間に重要な矛盾があつて自白の真実性が疑われ、殴打するにつき使用した兇器の形状及び殴打の回数についての自白が真実に符合しないとの重大な疑いがあり、強取したという財布の処置についての自白がその発見経過と全くくい違い、斯る重要な矛盾、疑問点及びくい違いのそれぞれに対して合理的な説明を加えこれを解明することができない以上は、結局自白全体としての証明力を否定するのほかなく、被告人の自白以外に被告人を犯人であると断定するに足るべき客観的証拠が何一つ存在しない本件においては、右強盗殺人の事実につき犯罪の証明が十分であるとはいえないことに帰する。

しかして、本件公訴事実中放火の事実は、右強盗殺人の犯跡を隠蔽するためになされたものであると主張されているのであつて、前提を成す強盗殺人の事実につき被告人がその犯人であることの証明が十分でない以上は、右放火の事実についてはこれに関する論旨(第五)に対し更めて判断を加えるまでもなく、該犯罪の証明を欠くものといわざるを得ない。

然らば本件公訴事実の全般につき、被告人に対し無罪の言渡をした原判決は相当であるというべく、論旨はすべて理由がない。

よつて、刑事訴訟法第三百九十六条により本件控訴を棄却すべきものとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 坂間孝司 栗田正 有路不二男)

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